心の健康は身体の健康に優先する

Young woman doing yoga on the beach in the morning, rear view. Tranquil scene.

心の健康が何より大事だという持論

皆さんはこの世で大切なものは何でしょうか?

「健康」という答えをされる方も多いのではないでしょうか。
筆者も大病をする事によりしみじみ健康の有難みがわかり、生きている喜びを噛みしめる日々です。

しかしながら健康には身体の健康と肉体の健康があります。

WHO憲章では以下のように定義されています。
健康とは、肉体的、精神的及び社会的に完全に良好な状態であり、単に疾病又は病弱 の存在しないことではない。」

で筆者が言いたいのは心の健康のほうが肉体の健康よりも断然大事だよという事です。

このブログでは肉体の健康維持を何回も歌っているのですが、でもこれをしたためておかないと自分自身ブレると思ったので今回かかせて貰います。

入院生活で知った一つの価値

筆者は癌が発覚した後、3か月半入院生活を送る事となりました。
同じ病棟には数年単位の期間、入院生活を送っている人がゴロゴロいました。
長い闘病生活で目に力を失い、挨拶しても返事が返ってこないそんな患者さんが殆どでした。

そんなある時、元気な健康そうなあるお爺ちゃんに出会いました。
そのお爺ちゃんはニコニコしてユーモアを絶やさず、お婆ちゃん連中の会話の中にも入っていく人でした。

そのお爺ちゃんと少し仲良くなり喋るようになって闘病生活日数を聞いて驚きました。
何と癌再発を繰り返し7年も入院生活を送っているのだろうです。

そのお爺ちゃんは人一倍周辺を歩いたり懸命のリハビリをしてましたし、副作用でベットでもだえ苦しんでいる筆者の枕元までやって来て「頑張れ頑張れ」と励ましてくれました。

そのお爺ちゃんは癌再発を繰り返す中で手術で内臓を色々摘出したそうです。
そのお爺ちゃんは確かに世間的に見れば肉体的にはもはや健康とは言えないのかもしれない。でも心は依然健康であると言えると思います。その健全性に筆者は勇気づけられた。

肉体的に不健康になったら人生終わりなのでしょうか?
そうじゃないと思います。まだ先がある。心が動いていれば終わってないと思います。

そんな事をあのお爺ちゃんから学んだと思います。

自分にとっての快とは何か

入院生活は痛み、怠さが酷く、とても辛いものでした。
24時間中22時間は副作用に苦しんでいました。そんな中、痛みや怠さも感じない時間が訪れると世の中が輝いて見えました。人間の快・不快の感性て不思議なものと感じたものです。

そんな辛い中でも美味しいマンゴーを食べたら美味しいと思うし、テレビで千鳥の相席食堂を見てゲラゲラ笑ったりしてました。
どんなに辛い事があっても面白いものは面白いし、美味しいものは美味しいのです。
そういう感性はむしろ研ぎ澄まされていたように思ってます。

自分にとっての「快」は何か今後の人生で追求しようと思いました。
太っていて周りから見て不健康そうでも、みっともなくとも自分にとって「快適」だったらそれは素晴らしい事だと思うのです。

自分にとっての心の健康は何か?それはその人それぞれであり、他人に決めさせてはいけないと思います。

自分にとっての心の健康の一つは「日々死ぬ程笑う事とそういう楽しい仲間を増やす事」にあります。そういった仲間を見つける為には「身体の健康」もあるに越したことはないと思います。

だからこそ色々なリハビリを頑張ってきたし、今後も拘っていきます。ですが何処かで自分の生命を手放す瞬間が訪れるのですから「身体の健康を目的にしてはいけない」と思ってます。

自分の快を満たす為には

生をこの世の中に受けたからには自分の快を追求しても良いと思うんです。
でもその為には他の人の快を追求する心を全面的に認めたり応援すべきだと思ってます。

偉い人の「こうあるべき~」みたいな意見に一切耳を貸す必要はないですし、どんな人でも自分に対しての言葉遣いが変だったり失礼だった場合とっとと逃げ出したほうが良いんじゃないか。

そんな風に心から思えるようになりました。

まとめ

色々な情報をみていて心の健康より余りにも身体の健康を強調する人が多く、少し偏っているなとも感じたのでこんな雑記記事を書いてみました。心が満たされなければ身体だけ健康になっても意味はないですよね。

筆者は癌闘病を通じて身体は借り物であり天に返すものであるから大切にするのは当たり前だけどそれが目的化したらおかしいよね、と感じているというお話でした。

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